先週富士山の歴史や宝永大噴火について書きましたが、丁度先週6月11日NHKのニュースで山梨、静岡、神奈川の3県でつくる「富士山火山防災対策協議会」は富士山の噴火による災害予測地図(ハザードマップ)を17年ぶりに改訂したと報道されました。

新たなマップでは、噴火を想定した火口の数は、改定前の約5倍の252か所で、最大の溶岩量も7億立方メートルから13億立方メートルまで増やしたとあります。より広範囲に溶岩流が達すると予測しました。
今までは溶岩流が到達する可能性のある地域は山梨、静岡両県でしたが神奈川県を加えた3県に増加しました。
勿論地震や火山の予測は現在でも難しく確実に予測は出来ませんが、シミュレーション技術等が進化して上記のようなリスクを導き出したと思います。

富士山噴火をテーマに書こうと思ったのが1カ月前でしたから、丁度今このようなニュースが報道され私達が知らされていない動きがあるのかなと感じてしまいます。

ここからは先週の続きです。
1707年宝永大噴火時は5代将軍徳川綱吉です。
徳川綱吉と言うと直ぐに思い出すのが歴史の教科書で学んだ「生類憐みの令」です。
この法は天下の悪法と言われましたが、学問を愛し、戦国時代に人々が忘れかけていた命の重さを思い出させるものでもありました。しかしその後、極端な法令の変更の為綱吉が伝えたい思いが伝わらなかったかもしれません。

綱吉について語られるのは儒学を学び、能を愛したと言う事で、宝永の地震や富士山噴火の時の対応や施策は具体的に学んだ記憶がありません。きっと専門的にもっと調べるとその当時にどのような対応をしたのか?綱吉を支える老中達はどのような動きをしたのか?

今もしこのような事態になったら当然日常生活、経済活動は止まってしまいます。
それは私達の日常は電気が使える事を前提とした生活になっているからです。
しかし当時は電気を使う生活ではありませんでしたから、農作物には大きな被害があったとは思いますが、アナログの生活なので今程大きな影響がなかったのでしょうか?
アナログの強さでしょうか?
いずれにしても興味は尽きません。

世界的にみるとマグニチュード9前後の大地震が起こると、近くの火山が非常に高い確立で噴火しています。
1952年カムチャッカ地震では3年後にペズイミア二火山が1千年ぶりに噴火、さらに1957年アリューシャン地震、1960年チリ地震、1964年アラスカ湾地震、2004年スマトラ地震の際にも全て地震の近くで火山が数日後から数年後には大噴火しています。

日本を象徴する富士山。
季節ごとにその姿を変え色々な背景と重なり人々の気持ちを和ませてくれます。
ふと今回の富士山をテーマに書いていると小学生の頃を思い出しました。
娯楽が少ない時代でしたので、どこの家も同じだと思いますが我が家でもお正月百人一首を家族でやるのが恒例でした。
勝ちたい為に百人一首を覚え母とどれだけ覚えたか、競争した事を思い出しました。
残念ながら今は殆ど忘れてしまいましたが、色々富士山を題材に詠んだ物は多いと思いますが、何となく記憶に残っているのが、

「田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ」です。

私たちの心の拠り所としての富士山も危険をはらんでいると思いながら、いつまでも変わらずその姿をずっと残してもらいたいと願うばかりです。

金子 孝一